如来寺は松峯山・真戒院と号する浄土宗名越派故本山で、鎌倉時代後期の後醍醐天皇の元亨二年(一三二二)名越派三世の高蓮社良山上人(妙観・一二八一?~一三六一)の開基になると寺伝はいう。上人は陸奥国石川郡(現須賀川市)の生まれで、浄土宗三祖良忠上人の門弟良弁上人の門下である明心上人を師とした。当時の奥羽は安東氏の内紛に乗じて出羽の蝦夷が蜂起し始めたので幕府は蝦夷征討のために奥羽へ出兵、蒙古襲来の際と同じく異賊降伏の祈祷を行なうという混乱期であった。時下って元禄九年(一六九六)、如来寺創建からの大鐘は大破したままであるがゆえに、常磐・西郷の能満寺より平・古鍛治の菩提院住を経て入院した如来寺二十六世良聲上人の、鐘樓からの声無しの憂いを知った良乗上人は、鎌倉時代末、真戒比丘尼が鎌倉から護持した銅造一光三尊阿弥陀如来像(国重文)や絹本着色阿弥陀三尊来迎図(国重文)、十王図などの寺宝を開帳して、・・宝物今開帳三銭供物志且篤人講之以興力奉成就鳴鐘者也・・と鐘にあるように浄財を募り、宝永七庚寅十月(一七一〇)に落慶した。願主は二十六世梵蓮社良聲寂阿静観で、国土安泰、兵戈無用、村里豊饒、精者繁栄を願っている。鋳物師は仁井町赤沼村(旧田村郡仁井町)に住む遠藤善兵衛。高さ約百六十五㌢、直径六十八・五㌢程で、百八煩悩になずらえた百八の乳がある。
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