磐城の三藩降伏す。 (仙台市榴ヶ岡・孝勝寺)
国境の駒ケ嶺に布陣したが、数日の攻防戦で館は遂に落ちた。岩沼にたどり着いた平藩士たちを仙台藩は暖かく迎えてくれたが、休む暇なく二本松の援軍を命じられる。白石に到着すると、米沢藩は越後から兵士を本国へ引き上げ中であり、会津の鶴ヶ城は窮地にあるということであった。九月になると進撃の命令が出た。二本松、仙台藩、幕府の歩兵が先鋒で、庄内、棚倉藩が続き、平藩はしんがりと決まり準備に入ったが、弾薬と兵糧の不足で攻撃は延期となった。その頃平藩の室衡平、棋徳之助を通じて米沢藩は平藩の帰順降伏を説論していた。また、仙台屋敷の安藤鶴翁(信正)は仙台藩主から降伏の内談があった。降伏を決意した鶴翁は、九月十四日に謝罪状を書き、直ちに白石から福島に兵を撤退させ、米沢藩に降伏の仲介を依頼した。泉藩、湯長谷藩もこれに同調する。九月二十二日に鶴ヶ城も落城、会津藩も降伏した。二十四日に岩沼の西軍参謀に仙台藩と共に謝罪状を差し出した鶴翁は、仙台八つ塚(榴ヶ岡)の孝勝寺で謹慎、待命したのである。井伊大老亡き後、開国と攘夷の難問を抱え、公武合体策を推進したが坂下門外変で老中職を失脚。奥羽越三十一藩同盟に参加し新政府に抵抗、七月十三日の平城開城から転々と北上した老公は、永蟄居が解けた二年後の明治四年(一八七一)十月八日、波乱万丈の生涯を終えた。五十三歳であった。
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