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城西寺跡の薄墨桜  2009年4月号

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 九月二十五日大館城西寺天神社奉納
  末社まで代々に色増す松の蔦 露沾

 露沾の歌仙発句である。内藤露沾は奥州磐城平藩内藤家の江戸屋敷に明暦元年(一六五五)生まれ、兄天死のため城主となるべきを弟に継がせ、磐城平の高月に閑居し花月を友としたのは元禄八年(一六九五)四十歳のときであった。関ヶ原役以前の守護岩城氏は飯野平城(大館城)を拠点としてほぼ北関東より富岡までを治めていた。岩城氏は当時教養とされた連歌を好み、連歌師の往来があった。会津芦名氏から出た猪苗代氏の家系に、宗祗の北野連歌会所を継ぎ、宗祗と『新撰菟玖波集』の編纂も成した猪苗代兼載(一四五二~一五一〇)がいた。兼載は文亀二年(一五〇二)初夏、故郷会津から三春を経て岩城に入り、領主岩城氏、志賀備中守、白土摂津守各氏屋敷に滞在した。宗祗の死で岩城を去る八月初旬までの滞在と思える。兼載の養嗣子の兼純(一四八四~一五三九)も、大永四年(一五二四)初夏岩城を訪ねている。この時、公卿・歌人の三条西実隆(一四五五~一五三七)から「兼純本国(岩城)へ帰る餞別に」と、一首頂いているから岩城滞在が長期化していたと
思える。細川幽斎や里村紹巴に学んだ法橋・兼如(?~一六〇九)も、岩城に滞在した。大館城うちに植栽した桜の下では、秀吉が催した醍醐の花見を模した歌会が盛大に催されたという。又、菅原道真を祀る天神社も大宰府天満宮から勧請されていた。R49号青雲院前の磐越東線側崖上に位置する、露沾が詠み捧げた寺と社はすでになく、薄墨の史実の花を咲かせる桜の古木と根元に積まれた古碑石仏だけが「市指定・城西寺跡」の標柱と共にある。
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