平と小名浜を結ぶ鹿島街道のバス停鹿島神社で下車。鳥居から右へ。「華木公園」の石碑があり、小径を上ると昭和2年(1927)十月に建てられた「戊辰戦役砲台古跡」の碑がみえる。ここら一帯は慶応4年(1868)の戊辰戦争の時の平城下進入防ぐ東軍が最後の砦とした激戦地なのであろう・
鹿島神社は常陸の鹿島神宮からの分霊した「和名沙」にも載る延喜式の神社で、町名の鹿島町は、鹿島神社からの由縁だという。平城攻撃は、尼子口、谷側瀬口、鎌田口の三面から攻撃する作戦であった。谷川瀬から正面を攻めることに決定した小名浜口の西軍(薩摩・大村藩)は7月12日、黒色の谷川瀬口攻撃隊の軍旗を掲げて小名浜を出発。翌13日は、引き続き小名浜に陸揚げした大宝で編成された薩摩の大砲隊が、暁5時に平を目指したのである。平城を死守する東軍は、平への本道(現在の鹿島街道付近)・間道や裏手にあたる上高久、中山でも主な山の中腹に砲台を築いた東軍の砲台からも必死の攻撃を受けたが、これらを撃退。昼頃の洗浄は、平上を目の前にした東軍の必死の防戦で互角。夕方5時頃には両軍相疲れ、一時砲火が途絶えた。西軍は軍議で夜半攻撃に決定したところ、城中に火の手があがったとういう。落城であった。