
JR植田駅西側丘陵に植田氏の領した山城植田城があったという。天正十八年(一五九〇)、
秀吉の北条の小田原城を攻めに参戦し、安堵を得て凱旋する途中に病死した岩城の城主岩城常
隆の跡目に、常陸の佐竹義重の三男が岩城家の養子(二十五代貞隆)に入った。後、佐竹家から後
見としてつけられたのが植田城主梶原美濃守政景(?~一六一五)であった。それまでの城主だっ
た植田氏は下山田村に移り、下山田を姓とし、名を大膳と称し、熊野神社の宮司を世襲した。
関ヶ原の戦いが起こるや、家康に加勢しなかった岩城家は家禄没収。佐竹家も減ぜられ久保田
藩(秋田)へ移封となり、梶原氏も主君に従って植田を去る。梶原氏の植田居城は慶長元年(一五
九六)春から、慶長七年(一六〇二)七月に秋田転封までの六年間であったが、慶長五年(一六〇
〇)に政景は前城主植田氏の菩提寺常春院があった桜台の跡に、華慶山龍昌禅寺という曹洞宗の
寺を創建した。梶原氏が植田城を去って幾星霜、以来植田城に城主は無く荒廃の限りであっ
た。同寺でも代々の住職が堂宇仏具を補いながらも梶原氏の菩提を弔ってきたが衰退をたどる
のみ。永平寺から転じた八世は同志らと図り、延宝三年(一六七五)八月、前城主御宝殿の下山
田氏が施主となる「朝夕に八方に響く龍昌精舎の新鐘の音は、百魔退散、城下繁栄にして、国
土安楽(抄約)」を願う祈願の一鐘を城下に響かせた。以後、百七十年余り桜台から鯨吼し続け
たが破損し、弘化三年(一八四六)に新造された駒の爪に彫られている鐘が、明治の希釈を経て
今は住職の子孫太田家に継承されている。
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