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植田稲荷神社-篤信の武将梶原政景-  2010年1月

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植田城に入城した梶原美濃守政景(?~一六一五)は慶長三年二月、舘崎の東光院境内に神社を
新造し、翌慶長四年(一五九九)四月に京都の伏見稲荷を遷宮して舘崎稲荷大明神(明治に植田稲
荷神社)と称した。別当寺は寳徳院(真言宗智積院派)の末寺の東光院。東光院は城主梶原政景の
遠祖鎌倉権五郎景政の法名「東光院円明永通大禅門」からとったと伝えられている御朱印十五石の
寺であったが、明治の廃仏毀釈で寺跡は薬師堂、幼稚園となり、東光院は目前の天神川に架かる「
東光院橋」とR6の鮫川橋堰堤に建つ「鮫川晩照」の漢詩にその名を留めるのみである。篤信の梶
原氏は、後田堀ノ内の御霊神社にも鎌倉景政を祀っているが、この鎌倉権五郎景政とはいかなる人
物なのであろうか。後三年の役(一〇八三~八七)で、源義家が雁の乱れで伏兵を知ったことが載
る『奥州後三年記』に、鎌倉権五郎景政という十六歳の若武者が左目を征矢で射られたがものとも
せず敵陣に突入し奮戦。帰還後仰向けに倒れた。これを見た同僚の三浦為継が、景政の左目に刺さ
ったままの矢を抜こうと景政の顔に足をかけたところ、顔を足蹴にされたと怒った景政は刀に手を
かけた。為継は非礼を詫び、膝を以て矢を抜いたという逸話がある。又『保元物語』にも大庭氏の
祖として金沢柵の一件が載る武勇伝の持ち主で、大庭御厨(藤沢・茅ヶ崎市一帯)を開発して伊勢
神宮に寄進した平安末期の武人(梶原・大庭・長尾氏らなどの祖)であった。御霊神社の大絵馬は
この武勇伝の中で安部貞任を追う鎌倉権五郎景政を描いたものだが、惜しむらくは原型に復するこ
とは困難と見た。が・・・
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