
海雲山慈眼院高蔵寺は真言宗智山派に属する古刹で本尊は阿弥陀如来立像。平安初期南都で学び大師空海れた高僧徳一は、民衆済度を発願し東国に降り筑波山を開いた後大同二年(八〇七)いわきに入り巡錫中、緒人の懇望を受け高倉山に密壇を設けて自ら彫った千手観音菩薩像を奉安し祈祷を厳修して開山したのが高蔵寺であるという。以後、歴史の波で隆盛を繰り返すうちに三重塔も建てられてきたとみえ、応永二十一年(一四一四)中興開山主と言われている甚清和和尚の代に、石川城主石川氏と植田城主上田氏が協力して本堂を建築、三重塔を修繕したという棟礼の写しがあるというからして、現在に続く三重塔の原型は少なくても鎌倉時代後期にはできていたとみるべきであろう。当時のいわき地方は観音信仰が盛んであったとみえるが、高蔵寺の観音参りは参道すらなく草木につかまっての登降であっただろう。江戸中期の享保十年(一七二五)代、その難儀を見かねた正木次郎左右衛門という現錦町大島に住む近隣の神社仏閣に多くの寄進をしてきた篤信の方が、難路に悩む信者のために参道の石段を寄進したのだと参道傍らの古碑は語り続けている。以来三百年、その段石の摩滅に歴史の重さが感じられる。観音堂境内の「法印権大僧都承隆」碑にある「安永三甲午歳七月(一七七四)」の刻がある相輪を頂き、初層方三・七四米、第二層方三・二一米、第三層方二・六四米の銅板葺き(元は板葺き)の屋根を持つ、法印承隆(?~一七七八)によって再建された総高約十三米の浜通り唯一の三重塔は、昭和五十六年三月福島県指定重要文化財(建造物)となってある。
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