東嶽田こと安田田騏(一七八四~一八二七)は、江戸後半の高名な画家でもある亜欧堂田善(一七四八~一八二二)の高弟である。師の田善は、現在の須賀川市い生まれた永田善吉。姓と名から田善、亜欧堂は号で亜欧堂田善と称した。円山応挙や与謝蕪村らに学んだ画僧月僊に師事、腐食銅版画創始者の司馬江漢に入門もした。白河藩主松平定信に画才を見出され、御用絵師の谷文晁(一七六三~一八四〇)に付く。後に本格的な銅版画や洋風画の技法を学び、医書「医範提綱」挿絵や「新訂万国全図」を完成させた。その田善の画法を継いだ画人の中で、最も優れた門弟が安田田騏であった。田騏は天明四年(一七八四)生まれ、姓を安田、名を騏、字は日千といい、東嶽、臺方菴などと号した。仙台の浪士で、仙台藩の狩野派絵師東東洋に学び、寛政年間に須賀川に移って田善に師事する。東嶽田は、二人の師に由来するものという。また、白河藩主御内寺の東林寺住職に請われ、定信編慕の『集古十種』にも関与した須賀川十念寺の画僧白雲にも学んでいる。白雲、田善共々松平定信の画臣でもあった田騏は、文政十年(一八二七)四月十一日、病のため佐波古村(湯本町)において四十四歳で没した。惣善寺(下の寺)に妹夫の柴原太真と門人達が建立した墓碑がある。
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