fc2ブログ

Entries

江戸時代の俳句に残る 鰹の小名浜 2010年10月号

top2010-10.jpg

 節に切る松魚や蝿のむれる中  一具

 江戸時代の盛りとなった頃の小名浜は、「平八百、小名浜千軒」といわれた位に磐城平の城下町をしのぐほどに賑わったという。
 地理的にも近隣各村が肥えた農地を持ち、多量の米穀を産するのに反して半農半漁の寒村であったが、古代から続いた猟漁ばかりでなく、湊を持ち地の利を生かした廻船の拠点をして活発な経済的活動がみられるようになった。そこで延享4年(1747)、幕府は小名浜を直轄支配地としたのである。磐城浜の沖には鰯が輪舞し、それを餌にする鰹が大群をなしていたのである。鰹の大漁に沸いている磐城の浜では鰹節造りで活気をなしていた。出羽国山形は現村山市に育ち、磐城の専称寺で修行した俳僧一具庵一具(1781~1853)が小名浜を訪ねた時、この鰹節造りの作業をみたのだろう。「土佐より出ずる節とは違いて、甚だ下品にして風味なし」と『東遊雑記』で古河古松軒が酷評している磐城産の鰹節は、また、中通り方面にも運ばれ「磐城の猫節」ともいわれ、猫の餌にされたとも伝えられている。養蚕を生業とする信越地方では鼠の危害を防ぐために猫を飼うので、猫も喜ぶ「猫マンマ」にしたらしい。それほど不味い節だったのであろうか。これは製造過程の不出来、煮崩れなどのハネ物を流通させていたのであろう。人も滅多に食えない鰹節を、猫にも食わせていたということは、小名浜の漁業や廻船取引と共に、彼の地も小名浜代官所の管理下にあったとこに由来したものであろうか。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://ihojin.blog99.fc2.com/tb.php/62-c47a0ca3

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する