
「日吉とて 旅立つ道の 今が世や
なにとてこれに 障りあるべき」
永正元年(1504)欣蓮社良春上人開山になる専称寺末の浄土宗大運寺への急な坂を登り本堂に向かってすぐ左に観音堂がある、右には枝垂れ桜の古木がある。太い幹には空洞ができ樹医によって樹脂が詰められ、手当ての傷跡が痛々しい。本尊は木造の千手観世音菩薩立像(約0.8m)である。観音堂は、昔は日吉堂といわれ、宇高室の観音山にあったが、何時しかこの地に移されたと伝えられている。宝暦7年(1757)には大運寺が別当であったというが、詳しくは定かではないと古老はいう。この地の大室はその昔、鎌田村の技郷であったころ、地形が「窖」(あなぐら)に似ているところから付けられてものだといわれ、窖と室が同義であることから大窖が大室になったものと思われる。古文書によれば、この地を統括した岩崎三郎隆久の三男鯨岡源左衛門基忠が延元2年(1337)羽黒権現と松崎稲荷の両社を大室村に勸請して以来、姓を松崎と称して両者の祠官(神官)を世襲したといおうが、松崎氏は氏神である日吉山王権現(大山咋神)をも祀っていたのは当然であろう。日吉(日枝)権現とは、最澄が延暦寺を開いたとき(788)比叡(日枝)鎮主の東宮地主神である大山咋神であり、その神を松崎氏の遠祖岩城則道が氏神として、永承4年(1049)に当地に勸請祭祀していることからみても「日吉社」の存在は十分に考えられるのである。
日吉の社へ千手観音を祀ることに、なにとて障りあるべきぞ。
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