小川長福寺に閑居して
代々ふりぬ 閼伽棚清き 花芭蕉
内藤露沾(一六五五~一七三三)
小川山 宝憧院 長福寺は、空海を高祖として奈良の西大寺を中興した興正菩薩叡尊
(一二〇一~九〇・興正菩薩は諡号)を宗祖とする真言律宗で、元亨二年(一三二二)に、
佐竹一族で執権北条高時の御家人の小川入道義綱が、信州諏訪上下両社と共に鎌倉
極楽寺の忍性(一二一七~一三〇三)の高弟である慈雲律師を招聘して開山したと
いう。長享三年(一四八九)、磐城常隆と親隆が寺領を安堵したことで七堂七院十二坊の
盛況をみたが、慶長年間(一五九六~一六一五)の度重なる火難で堂宇は滅失。現本堂
(市指定文化財)は正保年間(一六四四~四八)に再建されたものという。本堂に
祀られている興正菩薩像(木像84cm・室町)は市指定文化財である。夏井川上流
から取水するという新田開発構想の小川江筋開削は、寛永十年(一六三三)に内藤
政長の下小川長福寺領内から始まり、忠興代の寛永十二年(一六三五)以降になって
本格化した。広大な長福寺の領内を起点とするには地理的な必要性があったのであるが、
当時の長福寺は中世以来の奥羽唯一の真言律宗道場であった。奉行所は代替地を提起
した。時上れば、宗祖叡尊と師の忍性も、行基や空海同様に橋を架け、灌漑用の土木、
慈善救済事業を興している。長福寺開祖慈雲にとっては、これら先徳がなした諸事業に
勝るとも劣らない磐城の新田開発。その小川江筋開削の一翼を担ったことになろうか。
- http://ihojin.blog99.fc2.com/tb.php/7-73b7f71f
トラックバック
コメントの投稿