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関 寛斉  -性源寺が野戦病院に-  2007年6月

 慶応四年(一八六八)六月十六日未明、新政府軍は平潟沖に奥羽越列藩同盟軍を討伐するため、一千人の兵士を上陸させたのである。野戦病院も平潟から六月末に小名浜へ、平の性源寺に移動したのは七月十三日平城攻撃後であろう。平病院(性源寺)の傷兵は二百五十余名を数えたという。院長は関 寛斎(一八三〇~一九一二)という蘭医であった。シーボルト高弟高野長英に学んだ佐倉順天堂創設者の佐藤泰然に蘭医学を学び、長崎「海軍伝習所」にヤパン号(後の咸臨丸)を回航してきたオランダ海軍教師派遣団のポンペ軍医が教授する「長崎医学伝習所」(一八五七)で、師の佐藤泰然の息で蘭医である松本良順、用紙の佐藤舜海(尚中)らと更に学んだ。戊辰戦争勃発するや良順は会津に走り、鶴ヶ城で軍陣病院長として加療に当った。奥羽出張病院平潟口院長は寛斎、同じく白河口は同門先進の尚中であり、順天堂一門は東西両軍に引裂かれてた状態にあった。戦後、寛斎は良順の助命を嘆願し、勝者の栄達を振り切って野に下った。松本良順はその甲斐あって、やがて初代軍医総盟。関 寛斎夫は北海道に移住。貧民や入植者に診療奉仕をしながら彼の地に没した。奥羽出張病院スタッフの写真は中列中央が関 寛斎、左が寛斎と同郷同門の土着した蘭医斎藤竜安で、竜安の遺族が性源寺に寄贈したものだという。 

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