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丹後沢  2007年7月

 関が原の戦いで大阪方に味方した大舘城主磐城貞隆(十八万石)は慶長七年(一六〇二)に仕置きにより左遷され、下総国矢作(千葉・佐原市)から入封したのが鳥居忠政(一五六六~一六二八)である。忠政の父は、徳川家康が関が原の前哨戦でもある上杉影勝を討伐するために関東に進攻中、留守の伏見城が大阪方の大軍に襲われた。それを二千余りの兵で数倍の大軍を拾数日間食い止めて玉砕した「鳥居の血天井」で有名な鳥居元忠(一五三九~一六〇〇)である。忠政は新たな築城を計画した。文治二年(一一八六)に物見ヶ岡に祀られた飯野八幡宮を現在地に移し、その高台に三階櫓を造り城郭の中心とするもので本丸まで各櫓大門で区画するという城構えであった。
石材は好間や赤井、小川から主に野面を運び、動けるものは盲人までも使ったという。好間川に近い北側の後沢を内濠にすることによって、より堅固な護りにしようとしたが大雨が降るたびに堤防が崩されてしまう。そこで陰陽師に占わせるとみると、沼の主の大亀が雨水に乗じて沼と好間川を往来するのが原因であり、これを防ぐには人柱を立てるしか方法はないという。藩主が実行を命じたところ、夏井の菅波村に住む老人が名乗りをあげた。丹後という九十五歳を超えたその爺さんがいうには、「ワシはよいが、一人残された孫がかわいそうだ。孫を士分にしてくれるなら喜んで人柱になろう。」丹後が人柱となってからは暴風雨でも堤防は崩れず、丹後の遺言によって「丹後沢」といわれるようになったという。


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