
泉消防組の腕用喞筒
(小名浜・小名浜消防署)
小名浜消防署玄関前に旧泉村で買入れた腕用喞筒と言われた明治時代の消火用手押しポンプ車が展示されている。その案内によると、明治41年に東京神田区鍋町で製作され、同年泉消防組一部(八木屋)に配置されていたものだという。ポンプ水槽の両側面に「泉村警防團 第一分團」。後部に「明治四拾一年(1908)新調。昭和15年・平成17年塗替」とある。当時、泉村の消防組織は組頭一名、小頭10名の一組4部制で、組頭以下組員数175人で編成されていた。活動の場は、村内は勿論、小名浜、渡辺村、植田村及び周辺であったが、装備は喞筒(手押しポンプ)6台、纏(まとい)2、梯子9、水桶71、鳶口58、刺又3の器具であった。明治42年(1909)2月、湯本村裏町地内に炬燵の不始末から住宅70戸を焼失させる火災が発生した。
この新調したばかりの新型ポンプもガタガタ道を渡辺、湯長谷村と走り通して湯本に出張、消火活動に就いたが、鎮火の声と共に流石の組員達も疲労困憊で全員がダウン。帰路はポンプ車と共に湯本駅から泉駅まで汽車に乗って帰って来たこともあったという。地元はもとより小名浜は古湊の20軒全焼の大火など近隣にも出動し、幾多の活動をしてきた強者がここに展示されている腕用喞筒であり、当市にはこの形のポンプ車が他に3台あるという。

汲みてたのしみ神の恵みを 片寄義忠
中神谷の出羽神社(旧郷社)は大物忌神を祭神とする神社である。由来を抄訳すると、約八百年前の鎌倉時代初期の正冶年間(1199~1200)、出羽国に所領を持つ佐藤信濃守信貫という人が承元元年(1207)7月、中神谷の座主館(通称館山)に移り来たりて社殿を営み、信仰厚い羽黒山権現を歡請したのが出羽神社の創建であるという。時代は下って鎌倉後期の徳治元年(1306)片寄の城主片寄義忠は西郷の城主と金澤口で戦ったが、特にこの日は炎天であった。由緒はいう「兵馬共に渇し酔うがごとく水を求めて巳まず。大将片寄義忠の馬も膝を屈して歩まず。義忠直ちに下馬し兜を脱ぎ、羽黒山権現をひたすら祈った。時にして清泉湧出。この水で承知を得た義忠は自ら号して駒清水とした。今に至るも存する。・・」と。神の加護を深く謝した義忠は、湧水の上の山(現在地)に社殿を築き遷座した。この時詠んだ歌が湧水池の辺に建立奉納されたと伝えられていたが、経年のため所在不明となっていた。それが明治末期に埋没されているのが見つかり。本殿域に移され、内藤露沾(1655~1733)の文学碑と共にある。「丸に堅二つ引」の家紋のある折れ目を接いだ古碑がそれである。泉源地には有志により昭和52年に新歌碑が建てられ、瑞籬も整備されている。

宇治山 慈光院 長谷寺は大同2年(807)徳一大師の開山で、長谷式十一面観世音菩薩像を本尊としている曹洞宗の巨刹である。この本尊像は鎌倉時代に戦火により焼失しなのを当時の統治者だった岩崎隆義が文保2年(1312・鎌倉後期)に地元の仏師であろう能慶に仏像を再現させ開眼した。その寄木工法仏像胎内を体腔診察カメラで胎内銘のあることを見つけ、中世の歴史が再生された。この本尊は福島県重文に指定されている。その長谷寺の一角に小型ながら百四十余年の新たな歳を告げ、百八の煩悩を払拭してきた梵鐘がある。鐘には「平・椎名氏作 勅許文久3年癸亥」とある。これを鋳った椎名氏の祖は、日向国(宮崎県)に発すると言われ、一族は諸国に分かれていったが、秀吉より天成9年(1581)に知行百石をうけた椎名国定は、関ヶ原の合戦後に磐城にきて愛谷村(好間町)で勅許された鋳物師として磐城平の諸藩主に仕え、寺社の祈祷具または一般市民にとって欠かせない鍋釜、風呂釜にいたるまでの生活用品をも製作してきた。その一つである新たな年を迎えようとしている長谷寺の梵鐘は「公衆磐前郡山湯長谷邑。宇治山長谷禅寺現住良恵謹誌」の鐘銘からして、江戸末期の文久3年(1863)住職良恵のときに壊れた前の鐘を鋳つぶして椎名淺右衛門義忠が再鋳した、一区九乳四面の百八の煩悩を拭う梵鐘である。